BRAND: Raffinart

Wassily Kandinsky

GWK-63098

黄、赤、青 S(SV)

カタログ価格:¥ 9,000 税抜

Offset printing

JAN: 4941567630988

ワシリー・カンディンスキー。 1866年モスクワ生まれ。ロシアの画家、美術理論家。美術史において、ピエト・モンドリアンやカジミール・マレーヴィチとともに純粋抽象絵画の理論の創始者として知られている。代表的著作は抽象芸術を理論化した『芸術における精神的なもの』。 カオデッサで子ども時代を過ごし、グレコフ・オデッサ美術大学に入学する。卒業後にモスクワ大学に入学し、法律と経済を学び、タルトゥ大学でローマ法に関する教授職を受け持っていたが、教職を捨て30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始める。 1896年にはミュンヘンに移る。アントン・アズべの私立学校で美術を学び、次いでミュンヘン美術院で学ぶ。1911年にはフランツ・マルクとともに「青騎士」を結成し、ドイツの前衛芸術運動で活躍しはじめる。 カンディンスキーにおける形態と色彩の分析はシンプルさや装飾性を表現するものではなく、画家自身の内面表現である。科学的で客観的観察に基づいたものではなく主観的で経験的な表現だった。作品を通じて、内面に直接働きかける色彩への意識を強め、現実の外形の代わりに色彩の「響き」によって精神的な内容を伝えることを思い描いていた。1910年から1913年までの間に描かれた「コンポジション」シリーズは代表的な精神的表現である。ロシア象徴派の神秘的・包括的な世界観や、1908年から関心を持ちはじめた神智学からの影響が大きい。 第一次世界大戦が勃発すると、1914年にモスクワに戻る。当初、モスクワにおいて前衛芸術はウラジーミル・レーニンによって「革命的」として認められており、政治委員などを務めていた。しかし、ヨシフ・スターリンが台頭するにつれて、モスクワ共産主義の中ではカンディンスキーの抽象美術理論は疎んじられるようになった。スターリンが共産党書記長に就くと、1921年にドイツへ戻り、1922年から1933年にナチス政権により閉鎖されるまでバウハウスの美術学校で教鞭をとる。その後はフランスへ渡り、生涯をそこで過ごすことになった。1939年にフランス市民権を獲得し、最も重要な前衛美術家の1人として地位を確立する。1944年にヌイイ=シュル=セーヌで死去。孫は音楽学者のエレクシア・イヴァノヴィッチ・カンディンスキー

詳細情報

サイズ 404x314x25mm
重量 900g
素材 PS樹脂・アクリル・紙・MDF
生産国 イタリア・日本
仕様 吊金具:ヒモ 裏仕上:トンボ
パッケージ 個別ボックス
梱包サイズ 43x33x4cm
梱包重量 1.1kg
注意事項 *商品改良のため、仕様や材種を変更する場合がありますのでご了承ください。
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